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【光輝ブログ】日本独自の技術で初めて建造され武神を艦内にお祀りしていた超弩級戦艦「扶桑」

2025年03月09日

「初めて」というのは、大きな期待がふくらむ反面、うまくいかないこともあるものです。

それは、文字通り「初めて」だから。
たとえ失敗したとしても、次のステップへと進む布石になっていくものです。

今回ご紹介する戦艦「扶桑」は日本の技術のみで建造された初めての超弩級戦艦でした。
艦名にも艦内神社にも当時の大きな期待が感じられる「扶桑」はどのような艦だったのでしょうか。

日本独自の技術で初めて建造された超弩級戦艦「扶桑」

広島県呉市の呉海軍工廠にて、戦艦「扶桑」が起工されたのは1912年(明治45年)3月11日でした。 そして、進水は起工から2年を経た1914年(大正3年)3月28日のこと。

大抵の艦は、起工から進水まで長くても1年程度だったようです。ところが、「扶桑」は丸2年あまりもかかっています。

なぜ、そのように長い時間がかけられたのでしょうか。
それは、「扶桑」が初めて日本の独自の技術によって建造された超弩級戦艦だったからです。

1910年前半まで日本では海外から戦艦を購入したり、そのデータを基にして建造したりしていました。日本で一から設計してつくられたのは「扶桑」が初めてだったのです。

艦名の「扶桑」とは、中国で日出る東海にあるといわれた神木のことであり、すなわち日本の別称です。扶桑型の2番艦である「山城」は日本の旧国名である「山城の国」が由来しています。
私が艦内神社に興味を持ち始めた頃、この2艦が同じ型でありながら、命名の由来が異なることにとても違和感を持ち、その場ですぐに調べた記憶があります。はっきりした理由はいまだにわかりませんが、やはり「扶桑」は別格だったのではないかと私は思っています。

「大和」もそうですが、日本という国そのものの名前を付けるほどに、この戦艦への期待は大きかったのではないでしょうか。

「扶桑」は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦にも参戦し、1944年(昭和19年)、西村祥治司令官が指揮する通称・西村艦隊の旗艦としてレイテ沖海戦に臨みます。この西村艦隊は、ともに旗艦を務めた姉妹艦である「山城」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦の「満潮」、「朝雲」、「山雲」、「時雨」の計7艦の艦隊でした。

ですが、西村艦隊はレイテ湾へと入る途中のスリガオ海峡でアメリカ軍からの集中攻撃を受け、「時雨」を除く6艦が沈んでしまったのです。

1944年10月25日のことでした。

「違法建築」といわれる姿になるまで繰り返された大改装

日本の設計としては初の超弩級戦艦として、大きな期待を背負った「扶桑」でしたが、多くの問題を抱えた艦でもありました。確かに、経験がまだまだ不足した中でつくられた艦だったため、細かなバグや欠陥が次々現れるのは仕方なかったのかもしれません。

中でも大きな問題となったのは主砲の取り付け位置です。一番、二番が前にあり、そこから三番、四番は後ろに付けるのが望ましいはずなのに、なぜか三番砲塔も前に置いたことから、大きな欠陥が生じます。
主砲を一斉に射撃すると、爆炎が艦をおおい、爆風によって艦橋の建造物を破壊してしまうのです。その他にも、爆撃の反動による船体のゆがみが生じたり、なかなか速力が出なかったりとあらゆる欠陥を抱えます。

そのため、1930年(昭和5年)と1934年(昭和9年)の2回に渡り大規模な改装が行われています。
その際のかなり無理のある改装に次ぐ改装により、艦橋がまるで不安定なジェンガのような形になってしまいます。その姿は、後年「違法建築」と呼ばれるほど異様なものです。

その後建造された「山城」は姉妹艦でありながら、見た目も構造も大きく違います。これは、「扶桑」の問題を解決するために試行錯誤することにより進んだ技術の賜物といえるでしょう。

実は、ミッドウェー海戦で主力であった4隻の空母を失った日本で戦艦の空母化改装計画が立ち上がりました。その際に「扶桑」もその中に入っていましたが、計画は中止となります。戦艦としては旧型となってしまった「扶桑」は後方支援を主とするようになり、最終的に終戦間際のレイテ沖海戦へと送り込まれるのです。

こう考えると「扶桑」は、日本の別称を付けられるほど期待された艦であったにもかかわらず、さまざまな意味で不憫な艦だったように思います。しかし、「違法建築」などと呼ばれる姿になりながらも、日本の技術の向上を担った艦であるのは間違いないと私は思っています。

武神を艦内神社にお祀りする「扶桑」

「扶桑」の艦内神社は京都府八幡市の石清水八幡宮です。姉妹艦の「山城」も同様です。
石清水八幡宮は大分県の宇佐神宮、福岡県の筥崎宮と並ぶ日本の三大八幡のひとつ。
宇佐神宮には、5月の神旅®アウェイクで伺う予定です。(現在、満席につきキャンセル待ち受け付けをしています)

主祭神の八幡神は武神であり、源氏の氏神でもあります。
このような武神を艦内神社としてお祀りしていたことからも、「扶桑」への当時の想いの強さが感じられます。

石清水八幡宮は山の上にあり、緑が多くとても素敵な神社です。現在は、麓からケーブルカーも通り、山の上といっても、気軽に訪れることができます。住宅地のくねくねとした道路を上がることにはなりますが、車で行くことも可能です。

石清水八幡宮の山を登るときに思い出すエピソードが一つあります。
『徒然草』の「仁和寺にある法師」というお話です。

皆さまもご存じとは思いますが、仁和寺の法師が石清水八幡宮に参拝に行くためにやってきたが、石清水八幡宮が山の上にあることを知らず、麓にあった神社にお参りして帰ろうとする。周囲の人々が山に登っていくのをなぜだろうと思いつつもそのまま帰ってしまう。そして、仁和寺に着いてその話をしたところ、肝心の石清水八幡宮に参拝できてはいなかったと知るという話です。

中学生のときにこの話を習ったときは、何の感慨もありませんでした。ですが、代理巡拝で実際に石清水八幡宮に伺ったときには、この話をなるほどと実感。何事にもおいても情報をきちんと得るというのは大切なことであると肝に銘じようと思いました。
ちなみに、仁和寺の法師が山の麓で訪れた神社は、石清水八幡宮の摂社、末社であったそうです。

石清水八幡宮には「扶桑」や「山城」に関するものは残念ながらありませんが、日本随一の武神を艦内神社にした、建造当時の「扶桑」に対する想いの深さをしみじみと感じます。

ぜひ、石清水八幡宮に訪れた際には、戦艦「扶桑」、「山城」へと想いをはせていただけたらと思います。

こちらのブログでは艦内神社を知るための知識としての艦種について解説しています。
【光輝ブログ】艦内神社への理解を深めるための「軍艦の艦種のキホン」

戦艦「扶桑」データ

艦種戦艦・扶桑型
艦内神社石清水八幡宮
1912年(明治45年)3月11日 呉市呉海軍工廠で起工
1914年(大正3年)3月28日 進水
1944年(昭和19年)10月25日
フィリピン スリガオ海峡にてアメリカ軍の攻撃により沈没
最後の艦長阪匡身 少将

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