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【光輝ブログ】何度壊れても長く生きてたくさんの物資と人を運んだ艦 駆逐艦 「文月」~和風月名を持つ艦・その4

2024年07月28日

艦内神社を擁する旧日本軍の軍艦。その中でも和風月名を持つ艦をご紹介するシリーズ、7月は駆逐艦「文月」についてです。

終戦記念日も近づき、日本から遠く離れた海に眠る方々の慰霊のためにも、少しでも艦内神社について知っていただけたらと思います。

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不遇な事故で壊れても復活する不屈の艦

「文月」は、1924年10月20日に大阪府の藤永田造船所で起工され、1926年7月3日に竣工、佐世保鎮守府に所属しました。竣工当初の名前は、「皐月」、「水無月」などと同様に、第29号駆逐艦。後に、「文月」と名付けられました。


実は駆逐艦「文月」は、2代目に当たります。先代は、山彦型駆逐艦でロシアに勝った際に鹵獲(ろかく)した艦を改造して作られたものでした。ですから、睦月型駆逐艦の「文月」は、「文月2代」、「文月Ⅱ」などと呼ばれることもあります。

艦内神社は、他の睦月型駆逐艦と同じく、皇大神宮(伊勢神宮)です。

太平洋戦争が始まった頃、姉妹艦の「皐月」、「水無月」、「長月」と共に第22駆逐隊を編成していた「文月」ですが、なんと1942年9月に台湾との間で船を護衛している時、日本の輸送船とぶつかり大破してしまいます。その修理は12月までかかりました。

翌1943年1月には、南東方面に向かう部隊である第8艦隊に編入、駆逐艦「雪風」、「白雪」、「夕雲」、軽巡洋艦「川内」などとともに、ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦に参加します。この際にも、一部被弾をし、佐世保で修理をすることになります。

「文月」が最期を迎えるのは、1944年2月18日のこと。
南大西洋のカロリン諸島の中にあるチューク諸島、かつてはトラック島と呼ばれていた辺りの海で、アメリカ軍の機動部隊の空襲により沈没しました。
同じ海には、「那珂」、「阿賀野」、「舞風」などが共に沈んでいます。

戦場における幸運とは

常に死と隣り合わせの戦場においての幸運とは何でしょうか。

こうしてみると、「文月」は竣工から沈没してしまうまでの間に何度も衝突や被弾などで壊れ、修理を繰り返しています。とはいうものの、そんな状況であっても20年間長らえているわけです。姉妹艦が次々と沈んでいく中、長生きした艦でした。

幸運艦とひと口に言っても、さまざまなパターンがあります。有名なところでいけば、「呉の雪風、佐世保の時雨」と言われる駆逐艦「雪風」と「時雨」があります。


特に「雪風」は戦場で共に戦い、沈んでしまった艦の乗組員を数多く助けて最後まで日本に帰ってきています。

「文月」は、輸送がメインの役割であり、戦場のど真ん中に行くことはあまり多くありませんでした。
それは、破損が多かったということにも一因があります。修理している期間に大きな戦いがあっても出動することが物理的に無理だから。まずそれが、長く生き残った理由のひとつと考えられます。

もうひとつ、歴代の艦長を始めとする、乗組員の方々が優秀だったからではないかと、私は推測しています。

「文月」はガダルカナル島やトラック諸島の他にもラバウルやニューブリテン島など多くの海域に輸送の任務で赴いています。恐らく、相当長い距離を航海した艦だったのではないかと思います。戦いのために外洋に出ればどんどん燃料や弾薬も消費していきます。物資の輸送は表立って目立つことではありませんが、勝敗の行方を決めるものです。

実際の戦績を上げることはもちろん大事ですが、それを支える補給という役割に徹した「文月」は、私の中では印象深い艦です。

何度も大きく壊れても復活して物資を補給し、たくさんの人員を助け、20年もの間生き続けた「文月」はやはり幸運艦の1隻でしょう。

長く生きるということは戦地においては大事なこと。何事においても「生きるが勝ち」です。どんなに苦しいことがあったとしても、とりあえず生きてさえいれば何とかなるのではないかと、私は考えています。そのようなことを考えさせてくれるのも、艦内神社と海に眠る軍艦たちなのです。

知ること、忘れないことが慰霊に繋がる

近頃、代理巡拝を行っていると、艦内神社に関するトピックが多く飛び込んできます。

先日は、加賀の一ノ宮である白山比咩神社に行ってまいりました。
そこには、空母「加賀」に乗船していたという方が杉を植樹し、その記念の碑が以前からありました。しかし、駐車場の奥、さらに塀に囲まれた段差の下という、参拝者からもほとんど目につかない状態でした。

ところが、先日伺ったところ、碑のところに行きやすいようきれいに整備されていたのです。しかも「加賀」の主な経歴を示す看板も立てられていました。そして、横にはもうひとつの碑が建っていました。

お伺いしたところ、2023年8月に現在就役している護衛艦「かが」の碑が建立され、同時に「加賀」の碑の周囲も一緒に整えられたとのことでした。このように大切にされ、多くの方々の目に止まるようにしていただけたというのは大変うれしいことでした。

艦内神社の存在を皆さまに知っていただくために、さまざまな形でお伝えしつつ、さらに新たな碑を建立していけたらと考える私にとっては、明るい未来が開けるような出来事でした。

また、別の機会にご一緒した経営者の方とお話しすることがあったのですが、その方は、武蔵一宮の氷川大宮神社によくお参りにいらっしゃるとのことでした。そこには、戦艦「武蔵」の碑がありますが、その方は知らなかったとのこと。

艦内神社そのものもご存じなかったそうで、お話させていただくととても興味を持って聞いてくださり、「次は、必ず立ち寄らせてもらうよ」と。

初めてお会いする経営者の方に艦内神社に興味を持っていただけたということは、忘れないでいてくれる方が増えたということで、こちらもうれしく思いました。

このように、大変地道ではありますが、艦内神社について皆さまに知っていただくこと、忘れないでいていただくことが、慰霊に繋がることと信じています。そして、その活動の中で少しずつ艦内神社を巡る何かが動き始めているようなのが、私の原動力となっています。これからも引き続き、さまざまな切り口で探求していこうと思います。

艦内神社を知るための手がかりにしていただくための軍艦の艦種についてはこちらのブログをご覧ください。
【光輝ブログ】艦内神社への理解を深めるための「軍艦の艦種のキホン」

駆逐艦「文月」データ

艦種  駆逐艦・睦月型
艦内神社 皇大神宮(伊勢神宮)
1924年(大正13年)大阪府 藤永田造船所で起工
1926年(大正15年)7月3日竣工 
佐世保鎮守府に所属
1944年(昭和19年)2月18日 
カロリン諸島内チューク諸島、トラック島にて沈没
最後の艦長長倉義春 少佐

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