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旧日本軍の軍艦に祀られている艦内神社について、主に和風月名を名付けられた艦を中心にこれまでお伝えしてきました。
今月は、和風月名からは離れて、戦艦「長門」と艦内神社である長門の国一の宮住吉神社についてお伝えしたいと思います。
目次
日本人の期待を背負った戦艦「長門」
戦艦「長門」は、長門型戦艦の1番艦として、1917年(大正6年)8月28日広島県呉海軍工廠で起工、1920年(大正9年)11月25日に竣工しました。
「長門」という名前は、長門の国から由来しています。現在の山口県の西側、長州とも呼ばれていた地域です。艦内神社は長門の国の一の宮である住吉神社。
40cmの巨大な主砲を装備した「長門」は、「大和」、「武蔵」が秘密で建造されていた当時としては、世界の中でも有数な日本最大の戦艦として認知されていました。日本国民の大きな期待を背負った艦だったのです。
第4代の連合艦隊旗艦となった「長門」は、1942年(昭和18年)に「大和」に長く務めたその座を譲りますが、終戦時まで生き残ります。ところが、1945年(昭和20年)8月30日アメリカ軍により接収されます。国民にとって旗印であり魂でもあった「長門」を接収することは、日本の敗北の見せしめの意味もあったのだろうと思います。
さらに、1946年7月には、ビキニ環礁で行われたアメリカ軍の核爆弾の実験「クロスロード作戦」の標的とされます。この実験には、「長門」の他にも日本の軽巡洋艦「酒匂(さかわ)」やアメリカの空母「サラトガ」、ドイツの重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」なども標的とされました。これらの艦の中でも大型だった「長門」は、一度目の実験では艦の大きさや装甲の厚さから破壊されることはありませんでした。ところが、二度目の実験により、文字通り真っ二つに折れて沈んでしてしまいました。この沈没により、日本人の心も完膚なきまでに折られてしまったのでした。
現在も、そのまま海中に沈んでいる「長門」ですが、高い水圧に耐えられる訓練をしたダイバーであれば、10分ほどですが見ることができるそうです。実は、私の動画の師匠である長山さんも実際に潜って「長門」を撮影してきており、それを見せていただいたことがあります。深い海の中に沈む「長門」の姿には感慨深いものがありました。
また、広島県呉市の大和ミュージアムの屋外には、長門型戦艦の2番艦である「陸奥」の主砲が展示されています。(トップの写真です)「長門」に搭載されていたものと同等の主砲身は巨大でものすごい迫力です。これだけの主砲を4本も装備していた艦の大きさと発射に耐えられる強靭さはいかほどのものであったかと感じさせられます。
機会がありましたら、ぜひご覧いただけたらと思います。
日本三大住吉のひとつ長門の国一の宮住吉神社
戦艦「長門」の艦内神社である長門の国一の宮である住吉神社は、大阪市の摂津の国一の宮、住吉大社、福岡市の博多にある筑前の国の一の宮の住吉神社とともに、「日本三大住吉」とされています。
住吉神社の御祭神は、表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命筒(そこつつのおのみこと)の3柱が合わさり、1組となって住吉の大神と称されます。
住吉の大神は海を司る神様です。表筒男命が海面、中筒男命が海中、底筒男命が海底と3柱で、海のすべてを守っているのです。海を守るということで住吉神社は島国である日本の海の近くに多くお祀りされていますが、長門の国の住吉神社を含む「日本三大住吉」はその中でも一の宮である3社であります。
さらに住吉神社には、神功(じんぐう)皇后もお祀りされています。
神功皇后は、第14代天皇である仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后にあたります。神功皇后のすごいところは、日本書紀の中でただ一人、皇后の身分で1冊分の情報があることです。
神功皇后は、自ら司令長官として今でいう連合艦隊を率いて朝鮮半島に攻め込んでいったそうです。
神宮皇后の守り神が住吉の大神であったため、一緒にお祀りされています。ですから、住吉の大神イコール神功皇后であり、神功皇后イコール住吉の大神だといってもいいくらいです。
「長門」の中には、長門の国のエネルギーとともに海の守り神、住吉の大神と連合艦隊を率いた神功皇后の力が艦内神社という形でお祀りされていたということです。
住吉神社には私も何度かお参りをさせていただいています。神旅®経営者版で「長門」の艦内神社のお話をさせていただいたこともあります。
下関市の街中にありながらゆったりとした敷地で、入ってすぐに池があり、そこから階段を上っていくと本殿があります。気持ちの和むとても良い雰囲気の神社です。
一度、たまたまお祭りの日に伺ったことがあり、本殿にたどり着けないくらいの混雑ぶりでした。それだけ周囲の方々からも愛されている神社なのだなと感じました。
日本の守りの要としての命名だったのか?
「長門」は、私が艦内神社に興味を持つきっかけとなった「艦隊これくしょん‐艦これ‐」の中でも重要なポジションの強い設定がされています。私も初めてのゲーム内のイベントで「長門」のおかげで良い成績を残せたという思い出があります。
ここからは私の推測した考察なのですが、艦内神社を選定と新しい艦に名前を付ける際には、それまでの艦の名前との関連などとともに、エネルギーの流れも要素として考えられているのではないかと。
先ほども話題にしましたが、長門型戦艦の2番艦は「陸奥」です。「陸奥」は青森の旧国名です。この大型の戦艦に本州の北端と南端の国の名前を選んだということは、エネルギーのラインを結んで日本を守り切ろうという意図が込められているのではないかと思うのです。
なにぶん資料などがほとんど残されていないので、真実のほどはまだわかりませんが、いつかその辺りの謎も解いていけたらと考えています。
戦艦「陸奥」について、「長門」と「陸奥」の関係性については、またいずれお伝えしたいと思っておりますので、お待ちください。
なぜ私が艦内神社を探求しようと思い出したかについてはこちらのブログをご覧ください。
【光輝ブログ】皆さん初めまして 艦内神社を探求する大杉光輝です!
戦艦「長門」データ
艦種 | 戦艦・長門型 |
艦内神社 | 長門の国一の宮住吉神社 |
1917年(大正6年)8月28日広島県呉海軍工廠で起工 | |
1920年(大正9年)11月25日竣工 | |
1945年(昭和20年)8月30日アメリカ軍により接収される | |
1946年(昭和21年)7月29日 戦後、ビキニ環礁でアメリカ軍の核爆弾実験の標的とされ沈没 | |
最後の艦長 | 杉野修一 大佐 |
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