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大杉日香理ブログ

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鎌倉に鶴岡八幡宮が必要だった理由。800年以上続く源頼朝の「ブランディング戦略」

「鎌倉」にたいしてどのようなイメージをお持ちですか。
歴史や文化があり、自然も豊富で、どことなく「上流」なイメージがあるのだとしたら、源頼朝が仕掛けたブランディング戦略は成功だったということです。
今回は、頼朝が幕府を開いた鎌倉という土地を考察します。

源頼朝が持っていた「強み」とは

京都で生まれた頼朝は、13歳まで京都で暮らし、その後伊豆に流されました。
そんな頼朝が時代の流れを受け、東国武士たちのリーダーとして立ち上がり鎌倉幕府を開いた背景には、いくつかの要因があります。

ひとつは、運や時代の流れとマッチした。(運の良さは大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれています)
もうひとつは、血筋が良く京都で生まれ育ったため公家文化を肌で理解していた。
そして、「地政学」の視点を持っていたことです。
(この他にもさまざまな要因があると思います)

『鎌倉殿の13人』ではあまりフィーチャーされていませんが、頼朝は運や血筋だけでなく頭も良かったのです。だからこそ、時代のパイオニアとなる武家政権が誕生しました。

東国武士たちの悲願は「土地」だった

当時の東国武士たちは、武力の才を持たない頼朝を担ぎ上げてまで成し遂げたいことがありました。
先祖代々受け継いできた土地を、東に勢力をのばす平氏から守ることです。領地の支配を認めてもらうことが、彼らの悲願でした。

「ご恩と奉公」という言葉があるように、鎌倉幕府は土地を保証する機関だったといえます。

そんな武家政権の中心となった鎌倉という土地ですが、実はあまり恵まれた土地ではありませんでした。

一般的には「攻めにくく守りやすい立地だから鎌倉を選んだ」と言われていますが
実情は「頼朝にあてがう土地は鎌倉しかなかった」というほうが近いように思います。

なぜ京都から離れた鎌倉を選んだのか

鎌倉は、頼朝の先祖・源頼義が京都の石清水八幡宮から勧請した八幡神(後の鶴岡八幡宮)を祀った場所で、もともと「先祖の土地」ではありました。

しかし不毛な湿地帯だったのです。

鶴岡八幡宮の参道の「段葛(だんかずら)」は、頼朝が妻・政子の安産祈願に造ったものですが、低湿地でぬかるんだ道だと歩きにくいため一段高い道を造る必要があったようです。

そのような土地でも鎌倉を選んだのには、京都から距離をとろうとする頼朝の地政学的思惑がありました。

この時代の権力の中心はやはり京都。力のあるものは皆京都を目指しましたが、13歳まで都で過ごした頼朝は、公家に近付けば骨抜きにされると、平清盛の例から学んでいたのです。

そこで、京都からの影響を受けにくく、自分たちの動きもバレにくい鎌倉を選んだのでしょう。

ブランディングのための鶴岡八幡宮

それから800年以上経った今、鎌倉は歴史も文化も自然もある観光地というイメージが定着しました。
新しいものに飛びつかない、古都のような趣を感じさせます。

この功績は、源頼朝のブランディングによるものです。
京都の暮らしを知っていた頼朝は、何を鎌倉に取り入れれば威厳を示せるかがわかっていました。

鶴岡八幡宮もそのひとつです。
先祖が石清水八幡宮から勧請した八幡神を、現在の地に移して造営しました。
八幡神は源氏の氏神様。それを京都から持ってきたことに意味があります。

京都と同等の文化知識を備えている場所だと伝える役割を、鶴岡八幡宮は担いました。

神社は権力者のプロパガンダに使われることがしばしばですが、鶴岡八幡宮の場合はそれだけでなく、京都を意識したブランディングの意味があったようです。

他にも、頼朝は京都をなぞらえた都市づくりを進め、神社仏閣の建立にも力を入れました。
不毛の地だった鎌倉に中央の文化を取り入れることで、独自の武家文化を築いたのです。

まとめ

今回は、源頼朝が鎌倉の地をどのようにブランディングしたのかを考察しました。
大河ドラマの舞台にもなり、今後ますます注目を浴びそうな鎌倉。せっかくでしたら「始まりは何だったのか?」という見方もあると、観光の濃度も深まりそうですね。

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